母が教えてくれた認知症という病気の正体⑤決めた母

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2019年5月28日の記事です

連載記事
母が教えてくれた「認知症」という病気の正体①緊急事態発生
母が教えてくれた「認知症」という病気の正体②父への手紙
母が教えてくれた「認知症」という病気の正体③母の願い
母が教えてくれた認知症という病気の正体④父から電話

父から電話があったことを、母へ、報告する。

「お母さん。私、先週、お父さんに手紙ば出したよって、教えたと、覚えとる?お父さんから、手紙読んだよ、ってさっき、電話かかってきたよ。」

「ふーーん。そう。なんて言いよったね?」

「うん。反省しとるみたい。」

「ふーーーん。まーちゃんが言うけん、言うこと聞いとるだけじゃないと?」

相変わらず険しい表情の母。
父のことを話すときは、鬼婆になる。。。
父へ対しての信頼も、相変わらず、崩壊したままで、東京へ来てから、何度か母へ「家に電話してみる?」と尋ねてみるが強烈に嫌な顔をして拒絶。

「いや!話したくない」の一点張りでしたし、父からの前向きな電話報告すらも、こんな感じじゃ無理だなぁ~・・と思い、母から実家へ連絡すること一切を遮断しました。

さて、と。

そろそろ、始めますよ。

ここからは、ママのマインド改革のお話です。

「ねぇ、お母さん。お父さんてさ、あんな感じの人やし、しかも、あの性格で77年も生きてきとるけん、そう簡単には、変わらんって思うとさ。お母さんはさ、「外に出たい」「自由になりたい」って、お母さんの願い、私に、教えてくれたよね?
外に出たいなら、自由に自分の好きなところに行きたいなら、歩ける足にせんば、無理って思うとけど、どうする?膝の痛い今のまんまじゃ、一人では出かけられんって思う。出かけても、楽しくないって思うけど、どうかな?
私、以前に、お母さんの膝の痛み取り除いたことあるでしょう?覚えとる? 
私は、お母さんにへ歩けるようになる方法を教えられるし、痛みを取り除ける方法ば知っとるし、お母さんがやるって言うなら、付き合うけど、お母さんは、どうしたい?」

母は、私の方を真っ直ぐ見て、言いました。

「うん。歩けるようになりたい!毎日歩く練習する!まーちゃんと一緒に毎日歩く!」

そうこなくっちゃ!
「よし!うん、わかった!私、仕事に行かんばし、わざわざ歩く時間って取れんけん一緒に会社に通勤しようか。私は一日最低でも 6,000歩は歩くけんね、一緒に移動しよったら、自然と歩くよ。東京は、とにかく、歩く場所やけんね!痛かったら、途中で休めばいいし、痛みを取り除くストレッチも教えるけん。」

「はい!よろしくお願いします。」
母はそう言って、私に向かって、丁寧にお辞儀をしました。

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目標達成に必要なのは、目標を決める事。
そして、自分でやると決める事。

決めたら、あとはもうただひたすらに目標に向かって続ける事。
これだけだ。
四の五の言わずに、やりたいことがあればやると決めて、脇目も振らずにやり続ければいい。

これまで母にとっての最大の問題は、自分一人で決めることを、たったの一度も、経験していないことでした。

母の、過去の思考と行動パターンは、すべての物事に対して、迷ったら必ず父へ相談し、父へ許可をとり、父へ判断を委ねてきた。

そんな母が、「東京へ行きたい」と自ら口に出し、行動した。
「自由になりたい」「歩けるようになりたい」と目標を定めた。

そして、自分の意思で、それを自分でやると、決めたのだ。

この時、私は心の中で、密かにガッツポーズをとっていました。
決めた人は、その強い意志を貫き、何としてでも、願望を叶えるからです。
母にとっての大きな大きな第一歩は、もうすでにクリアしている!
成功したも同然だ。

目標を達成できない人は、総じて、決められない人だからです。

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では、
決められなかった母が決められる人になるために、ここへ至るまでに行ってきたことをご紹介します。

何気ない些細なこともすべて、母の選択は、母自身に委ね、母自身で決定することをやり続けました。

例えば、
「お母さん、何、飲みたい?お水、緑茶、コーヒー、紅茶、どれがいい?」
と、質問します。

「まーちゃんが、飲むのと一緒でいいよ。」
当然、母は、我を出さない。

「ううん、私じゃなくて、お母さんよ。お母さんが、今飲みたいものを教えて。」
と、再度質問する。

「うーーん。。。(考える)コーヒーが飲みたいな。コーヒーを頂きたいです。」
希望を口にする。

「OK!じゃあ、お母さんにはコーヒー淹れるね。私は緑茶を頂きます。」
私も、我を出す。

「お母さん、今日のヨーグルト、どれにする?桃、いちぢく、アロエ、ミックスフルーツ、プレーン、ブルーベリー、いろいろあるよ。」
いろいろ買ってきて、全種類をテーブルに並べて、母、本人に選ばせる。

そんなことの、積み重ねです。

人生は選択の連続。小さな選択も大きな選択も、きっとこれまでの母は、ずっと、他人に合わせて、他人に譲り、自分を後回しにする人生だったのだ。

「お母さんはね、これからは自分を一番にすること。ゴキゲンにすればいいとよ。お母さんが好きなもの、お母さんがやりたいこと、お母さんが食べたいもの、今まで我慢してきた分、今から、ぜーーーーんぶ、叶えるけんね!」

「ありがとうね。まーちゃんに、お世話になるばっかりで、お母さん、何にも出来んで、ごめんね。」

「なんば言いよるとね。私は50年間、ずっとお母さんにお世話になりっぱなしよ。私も大人になったとやけんお母さんも、そろそろ、私に甘えてくださいねー。人は一人では生きて行けんもん。みんなで助け合って生きて行こうよ。困っている人を見たら助けてね。って人には親切にしなさい。って、教えてくれたのはお母さんよ。」

そうやって話していると、かつてはいつも笑顔で優しく声をかけてくれた昔の母の姿が自然と浮かんでくる。でも目の前にはそんな面影の欠片もないほどかけ離れてしまったの母の形相とのギャップ。わかっているつもりでも期待しないと言いながらもなかなか現実を受け入れられない自分に気付き、ボロボロと涙があふれてきた。どんなにおめかしをしてもどんなにオシャレをしても、目の前にいる表情がない人は、私が知る母ではなかった。

私と会うと、まずネイルから。

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若いころは、ほんとうによく歩いていた母でした。
だけど、歩けない身体で産まれた息子(私の弟)に必要だと感じ40歳で自動車免許を取る決意をした母は、仮免も本免も一発合格。見事な集中力で短期間で習得し、その後は、来る日も来る日も、弟と父の送り迎え。一人暮らしになった祖父を引き取り祖父が施設へ入って以降も、毎日車で移動。私も何かの時は、いつも母が送り迎えをしてくれ自宅と家族の関わり合いのいろんな場所とを、1日に何往復も運転していました。
   
認知症が診断されて、自動車運転免許返却する数年前までは車移動ばかりで、ほとんど歩いていませんでした。
12~3年前に膝を痛めてからは痛みをかばいながら、歩いていました。6年ほど前から杖を使うようになりました。長崎では、ほぼ引きこもっていた母が、東京滞在中の2ヶ月間、毎日、毎日6,000歩~8,000歩を歩き続けました。多い時では10,000歩以上。

膝の痛みを抱えながら、「痛い」「痛い」と弱音を吐きましたが、そのたびに「お母さん。長いこと歩いてなかったけん、筋肉も少なくて、関節にスゴく負担がかかると。筋肉が増えるまで、もう少しの辛抱よ。がんばれ。がんばれ。

あっくんは、この痛みば我慢しながら、毎日1時間リハビリ続けよるとよ。お母さんの認知症が分かってから毎日、訓練しよるよ。あっくんもがんばりよるけん、お母さんもがんばろうね。」

そうやって声をかけて、母の生き甲斐である自分の息子が頑張る姿をイメージしてもらいながら、母のモチベーションを保ち続けました。そうするうちに、次から次へと、母に、さまざまな変化が起こりはじめました。言葉を正確に述べると、母自身が自分で奇跡を起こし始めました。

つづく。

母が教えてくれた認知症という病気の正体⑥歩くことは生きること