人は使命を持って人生のシナリオを描いて産まれてくると言いますが、自分の使命を明確に自覚した日のお話

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弟と私

足と歩行の未来開発ラボ、代表の井手口です。ご訪問くださりありがとうございます。

昨日、誕生日を迎えて55歳になりました。
お誕生日メッセージをくださった皆様、ありがとうございます^^

おかげさまで体調も良くとても元気です。更年期の症状もないですしね、元気溌溂ですよ☆若い頃は、毎日ヘロヘロクタクタだったのがウソみたい!


先週末は、長崎市内を歩く階段クラブのイベントで出張でしたがこちらの疲れも出ていません。

イベントへご参加くださった皆々様、ありがとうございます!!

埼玉から、東京から、神奈川から、福岡から、と、ご遠方よりご足労くださったこと心より感謝申し上げます。

長崎市は、井手口が29年11ヶ月暮らしていた故郷です。
結婚を機に東京へ住み始めて25年、関東平野に慣れた身体で長崎市を訪れると、改めて階段、坂道、を、実感します。

家に帰るのも階段、学校へ行くのも階段、友達の家へ遊びに行くのも階段、物心ついた頃から避けられない階段・坂道を歩くのが当たり前だった自分はきっと、無意識に身体で習得したのでしょうね「階段・坂道を楽に歩く方法」を。

多くの人が「キツイ、しんどい、無理」と仰る階段・坂道歩きを、自分はまったく苦痛に感じなかったんです。

それで、アシタスタイルを創ってから「階段ツラくない自分はどうやって歩いているのかしら?」を分析して、歩き方メソッドを確立しました。

「階段・坂道を疲れずに楽チンに歩ける方法」を、ご参加くださった皆様へシェアしながら実践するのが、アシタスタイル屋外活動・階段クラブのイベントです。

長崎で、階段・坂道を2万歩ほどをモリモリ歩いてきたおかげで、足の先端までしっかり血が巡り、東京へ戻ってきてからも体調がめちゃくちゃ良い!!

さらに、羽田から自宅へ移動してくる暖房の効いた電車内で、気がついたこともあります。

暑くて腕まくりしている私と、かたやコートやダウンを着込んだ東京の人たちとの服装の差です。

便利な交通機関に頼る日々と、たくさん歩き回る日々とでは、こんなにも体温変化が起こり、服装が変わるほど身体が変化するんだなということでした。

これから冬場になりますし、今まで以上に、もっと歩こう!もっと動こう!と、心を新たにしました。



さて、本日は、55歳の誕生日を迎え、巡らせている想いを綴ります。

イベント後は、実家へ立ち寄りました。

家の片付けや掃除、洗濯、両親の体調ケア、兄との会話やお困りごとの解決、弟の自主訓練のサポートなど行ってきました。



長い期間、車椅子だった弟ですが、母が認知症を診断されてから、再び、立位・歩行訓練を始めました。近頃では、足腰に筋肉がついてきて代謝も上がったのでしょう、だいぶ痩せて、シュッとしてきました。自足自立歩行は、まだまだ遠い道のりですがスローターを押す彼の背中は力強く逞しくなりました。側弯症の改善も見られます。「良くぞここまで頑張った!」と、諦めないでツラい訓練を続ける弟の姿にいつも勇気をもらっています。

そんな弟、あっくんの、最近の様子。




階段・坂道の町に生まれ、歩けない身体だと判明してから家族の暮らしは一変しました。

自分が今「大人」と呼ばれる年齢になってみて、当時の父と母の日常に走った激震と、その後の苦労がどれほどだったのか?を想像するだけで、震えます。

私たち兄弟は、親元を巣立ち、それぞれ自立していきます。同じように弟も、大人になっていきます。両親は年老いていきます。順番で行くと子どもよりも先に旅立ちます。

歩けない身体の弟は、出かけることも、幼稚園に行くことも、学校に行くことも、全部が高いハードルでした。私たちが通った自宅の目の前の小学校に通うことを、教育委員会からは許してもらえず、校区から離れた遠くの養護学級へ行きました。中学校は長崎市外へ行くことになりました。障害者が社会人として暮らすには、障害者雇用のある授産施設へ行くのが一つのルートで、そのためには、なにか手に職を得る必要があって弟は、パソコン操作の勉強に通うことになりました。そんないつか必ず来る未来に向けて両親が、様々な働きかけをしていたことを覚えています。

例えば、当時の長崎には、列車やバスなどの公共交通機関で、駅員さんや乗務員さんが車椅子の人の介助をするという概念は存在しませんでした。

そこで両親は、勉強のために長崎駅から諫早駅への通学路を「自分で通わせたい」と、駅の職員さんや周囲の方々へ懸命に働きかけました。

私の両親は、地域に前例の無かった仕組みを、新しく作った2人なんです。

他にも、様々なところへコンタクトをとり、実際に足を運び、我が息子の状況を説明し、たくさんの他人様に頭を下げ、協力をお願いすることを惜しみませんでした。

特に母は、母の人生の大半を、息子と息子を取り巻く環境整備のために費やしたのではないでしょうか。弟の障害がわかった時、すぐに自動車の免許を取りに行きました。当時母は40歳でした。

私たち兄弟に、常日頃から言っていたのは「障害のある弟がいても恥ずかしいことじゃないからね。」です。

普通の子と同じ暮らしを、と、積極的に弟を外へ連れ出していました。

障害者と呼ばれる人たちが、健常者と呼ばれる人たちと同じように、普通に当たり前に暮らせるように、PTAや福祉協会などを通して頑張って活動していました。

アシタスタイルのお客様から告げられたこと。

「雅恵さん。諫早ってわかる?長崎ご出身でしたよね?」と。

聞くところによると、全国的にも長崎県諫早市が、障害者の社会活動の発信が特に活発な地域なのだそうです。

え?!
これってまさに、うちの両親の功績じゃん!!!


そのお話を伺った時、当時の両親の様子が蘇ってきて、心が震え、涙が出ました。

その日の夜に実家へ電話を入れて聞いたお話をシェアしました。
「お父さん!お母さん!あっくん!こんな話を聞いたよ!あの頃の努力、報われたよ!」と。

父は「そりゃぁ良かったなぁ!」と喜んでいました。母は「嬉しいね」といいながら泣きました。弟は、笑いながら涙をぬぐっていました。

自分たちが必死で切り開いてきた道が、こんな形で残っているなんてね。感動せずにはいられません。

井手口雅恵は、こんな両親の元で、弟と一緒に育ちました。


思うに、私の行動力は、両親譲りなんだと思います。



井手口雅恵は、常日頃から、足の大切さを訴えています。

それは「自分の足で歩ける。」が、当たり前にできている人には、なんてことはないけれど、それがどれだけ恵まれていてどれだけ幸せなことか、を目の当たりにしてきたからです。

私は、自分の足が外反母趾になるほど壊れてしまったことで、体調不良を引き起こしたことも勿論なのですが、長崎という階段・坂道ばかりの土地で、弟の身体のことがあって苦労してきた両親の姿がリアルだからなんです。 

足を大切に思う気持ちが、人一倍強いのも、自分の足で歩くことに対して、異常なまでに執着するのも、こんな背景があるからなんですよね。


アシタスタイルは、これまで生きてきた大半を、絶不調で過ごした井手口雅恵の集大成であり、悔しかった私の人生へのリベンジ。
そして、悔しかった弟の、悔しかった私たち家族の、人生へのリベンジです。


私は、私が作ったものでたくさんの人を笑顔にしたい!喜ばせたい!

かつて自分がそうであったように、思い通りに動かせなくて歯痒い、そんな身体と共に、苦悩の日々を送っている誰かの役に立ちたいです。

そんな私の人生の経験から生まれた アシタスタイルメソッドを一つのページにまとめました。こちら

 

 

  

井手口雅恵、55歳の誕生日。

アシタスタイルを必要としてくださる皆さんと共に、故郷の長崎市へ出向き、独特な地形での暮らしをリアルに感じる街巡りをしながら、豊かさと惨劇の歴史に触れました。日々の努力で変化してきた弟の姿に触れ、両親と弟の身体のケアをし、家族とたくさん会話をし、長崎から戻ってきて、両親が取り組んできた働きを、改めて振り返り、思うこと。
 
 
人は使命を持って人生のシナリオを描いて産まれてくると言います。
今日は、自分の使命を明確に自覚した日です。
 

「雅恵さん。何か欲しいモノはある?」そんな風にプレゼントを考えてくださる方多いですが、モノは要らないです。その代わりに私の願いを叶えてくださいませんか?

私の願いは、アシタスタイルメソッドが、日本中に、世界中に、広まっていくことで、痛みや苦悩から開放されて笑顔が増える世界です。

「あなたの大切な人へこのページをシェアする」というプレゼントを頂けないでしょうか。
どうか宜しくお願いいたします。

「健康」という幸せを「自分の足で歩ける喜び」を、1人でも多くの人へ届けられるよう、今後の人生も、アシタスタイルと共に、精一杯生きていきます!

これからもアシタスタイルへの応援・ご支援、ご参加・ご購入、変わらぬご愛顧を賜りたく、何卒宜しくお願い申し上げます。

 

最後までお読みくださりありがとうございます。

  

それではまた!