母が教えてくれた認知症という病気の正体⑥歩くことは生きること

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2019年7月28日の記事です
代表井手口の連載記事です
母が教えてくれた認知症という病気の正体①緊急事態発生
母が教えてくれた認知症という病気の正体②父への手紙
母が教えてくれた認知症という病気の正体③母の願い
母が教えてくれた認知症という病気の正体④父から電話

母が教えてくれた認知症という病気の正体⑤決めた母


⑤からのつづき。

「歩けるようになりたい」。
自分で決めた母は、続けます。オフィスがある新宿御苑前のサロンまで、自宅からの通勤は私一人での移動なら、徒歩も含め、50分~1時間。それが母を連れてとなると、倍の時間を要します。通勤の移動には、片道2時間強×往復を考えながら行動しました。


懸案事項.1

感情のコントロールが利かなくなりところ構わず、愚痴を言いたくなる母の脳を、朝の通勤電車内で、制御するにはどうしたらいいだろう?

【音楽で解消】

母に提案したら、OKだったので電車の中では、静かな音楽をスマホの中に入れておいて、イヤホンで聴いてもらうことにしました。目を閉じ、雑音がなく、キレイな音だけが自分の耳に入ってくるとざわざわが収まり、心が穏やかになって眠たくなってくるそうです。電車移動中、座席に座れたときは、いつも静かに眠っていました。席に座れないときでも、立ったまま、手すりやドアにもたれかかり目を閉じていることが、ほとんどでした。

【キャンディで解消】

常に私が、いろんな味の飴玉を持っていて(大阪のオバチャンみたいにね♪)一緒に舐めました。電車に乗ったら、すぐ「はい、ママ、どーぞ」と、差し出すと嬉しそうに、口をあーんと開ける姿がなんとも可愛かった。「私のは、オレンジだった!お母さんのは?」「んー?これは、なに味かなぁ?ぶどうかな?あーマスカットだ!」なんて。
懸案事項がクリアできたので、あとは、根気よく続けるだけ。移動はもちろん、電車に乗っている時ばかりではありません。特に東京という土地は、とにかく歩きます。階段の昇り降りがたくさんあります。電車に乗る際も、エスカレーターやエレベーターがない場所もある。歩けば、膝にも負担がかかります。膝痛は、昇りはいいけれど、下るときに特に強く出ます。しかし、それでも母は根気強く、毎日続けました。
   
すると、みるみるうちに、変化を遂げていったのです。

◎体重が4kg、落ちました。
◎膝の痛みがほぼ、無くなりました。
◎脚が浮腫まなくなりました。

母の足で30分×往復を、東京滞在中の二カ月間、歩き続けた結果、電車の中で座席に座りたがっていたのが、後半は、自ら「頑張りたい」「立っていたほうが脚が強くなるから」と、席が空いても座りませんでした。会社への通勤移動中、5分毎に痛みが出ては立ち止まり、を繰り返していましたが、後半は痛みが出ることもなく、立ち止まることなく歩き続けられました。初めの頃はゆっくり一歩ずつ一歩ずつ、痛みをかばいながら注意しながら昇っていた階段を、二か月後は私とほぼ同じ速度で、並んで一気に昇れるようになりました。新宿駅~新宿三丁目駅~新宿御苑前駅、と電車移動していた区間を、徒歩移動できるようになりました。

(人は、幾つになっても変わることができるんだな。)

生き生きと動く母の姿を目の当たりにし、東京に来たばかりの頃の「死にたい」と言っていた力のない目を思い出していました。

懸案事項.2

膝の痛みが出て、立つ・歩くが困難になったとき、どうするか?

【痛みは自分で動かして解消できると知ってもらう】
◎自宅でのストレッチ。その痛みは、どこが原因で、どうしたら解消できるかを、一緒に探しながら行う。関節の役割、筋肉の役割、など、自分のカラダで確認、自覚しながら、膝が痛くなっている原因を知り、縮まりがちな筋肉部分のストレッチ。
  
◎歩いている場面で痛みが出たら、立ち止まって一緒にストレッチ。さっきまで痛かったところが、「こうすれば痛みが無くなってまた歩ける」を、痛みが出るたびに何度も何度も、繰り返し行うことで、身体に覚え込ませる。

続けているうちに、痛みの発生サイクルが、徐々に長くなります。何度も立ち止まってストレッチしていたのに、後半は、一度も立ち止まることなく歩けるように変わりました。

何が良いかって、「今日は、一回も立ち止まらなかったね!」「一回も、痛みが出なかったね!」それを、本人が自覚をし、私から褒められ、自分で自分を褒められること。結果だけではなく、そこへ至るまでのプロセスを共有し、成果も変化も感動も、一緒に、共有できたこと。

自信って、こうやって、培われていくんだなー。)

きっと母は、幼い私の成長を、こんな気持ちで見つめていたはず。言葉を覚えたり、できることが一つずつ増えていく成長する娘の姿を見ながら感動していたんじゃないかな。

混んだ電車では、杖を持っている年配者に皆さんが席を譲ってくれます。
母は、席を譲ってくれた人へ、深く丁寧に頭を下げて、丁寧にお礼を述べていました。そして「東京の人も、皆さん、優しいのねぇ」と、度々、口にしていました。

私が長崎から東京へ出て来たばかりの頃は、電話口で「都会には怖い人がたくさんいるから、気をつけなさい。」「危ないから周りをよく見てね、注意しながら歩きなさい。」など、心配そうに度々言っていました。

だから、改めて、母へ告げるのです。
「ねぇ、お母さんさ、よく私に都会は危ないとか、怖い人が多いとか言いよったけど、東京に住んでみてどう思った?東京やけん危ないっていうのは、ちょっと違うって思わん?危ない場所も怖い人も、東京だけに限らんでしょ?長崎でも、長崎じゃない場所も、都会も田舎も、同じように危ない場所はあるし、怖い人はおるやろ?長崎と同じように、東京だって優しい人はたくさんおるし、大丈夫な場所もたくさんあるとよ。ね。みんな優しいとばい。安心した?」

母は、言う。
「うん、ほんとうに、そうね。親切で優しい人ばっかりね。東京で暮らしてみて、知らんやったこと知れた。びっくりすることが、いっぱいあるねー」

目の前の世界とは、自分の知りうる限りの世界。
狭い世界しか知らないままに広げないままに勘違いや思い込みが、強くなっていく。母の世界が、少し広がって、嬉しかった。東京で暮らす長女の心配ばかりをし、別の地で暮らす次女の心配ばかりをし、そんな心配の中で過ごす母の心労の時間が、この経験によって、少しでも減らせたことが、嬉しかった。

母が起こした奇跡は、他にもあります。

【母が起こした奇跡①】

会社へ母と一緒に出勤し、一日会社で過ごすのですがただ、ぼーっとしていても面白くないし、出来ることは時間がかかってでも手伝ってもらおうと思い、簡単な作業レベルのものをやってもらいました。小学生なら、一度教えると、あとは、勝手に出来るようになるレベルの左右対称のシール貼り。
初めの頃は、左右と裏表が判断できず、手順もわからなくなり、一回一回を確認しながら行っていました。東京への滞在期間中、その作業は計4回やってもらいましたが、4回目には、私へ一切、確認することもなく初めから最後まで、自分たった1人でこなせるまでに、学習能力が向上しました。

【母が起こした奇跡②】

富士山が大好きな母に、私の夫は「お母さんに富士山を間近で見せてあげよう」と滞在期間中、2回、ドライブに出かけました。私たち夫婦が気に入ってよく立ち寄る、いい温泉が湧く地元の共同浴場があるのですがそちらへもドライブの度に訪れました。一度目は、母が来て間もない頃の、2週間目。二度目は、その一か月半後。

二度目にその温泉に行って、脱衣所で着替えていた時、唐突に、母が私へ告げたのです。

「ねぇ、まーちゃん。このお風呂、前に来たでしょ?ほら、この昇り段のところとか見覚えがあるよ」

母の言葉に、わが耳を疑いました。
「お母さん、いま、なんて言った?」

「ここのお風呂ね、この前、来たところねって思って。おんなじところでしょ?」

「そうよ!お母さん!この前一緒に来たと!すごい!すごい!!覚えとったと?」

「うん、覚えとった^^ちゃんと覚えとったね!忘れんやったみたいね」

母の記憶が上書きされている!!

ヘレン・ケラーが、水をかぶって「ウォーーターーーー!!」の言葉が口を突いて、外に出てきたときって、こんなかんじだったのかもしれないな)と、ふと、思いました。

私も驚き、母は、私以上に驚き、新しいことを忘れずに覚えていたことがよほど嬉しかったらしく、その後も、帰りの車の中で、Kさんへ自分がお風呂の場所を覚えていたことを報告しながら何度もお礼を言いながら、何度も何度も繰り返し話していました。

その様子は、幸せそうで、嬉しそうでした。

「歩けるようになりたい」と目標を定めた母。

そして毎日、毎日、痛みと闘いながらコツコツ続け目標達成!

さらに、記憶を回復させるという予期せぬ成功まで、自分自身の努力で手に入れた。
やり遂げたのは、母です。
私は母の望みを叶えることに、徹底的に付き合っただけ。

幼少期からずっとことあるごとに母から聞かされていた言葉「継続は力なり」を、実(じつ)で行う人なんだと感動しました。改めて、母を、心から尊敬します。
   
母の過去の人生、私が聞き知る限りでは、物事の決断の多くを他人へゆだねていたけれど、母が自分で決めて行動したことが幾つかあります。
・自分の息子が歩けない身体であることが分かり、成長し体重が増えていく彼の移動に必要と感じ、自動車免許を取りに行くことを決め、集中して自動車学校へ通い一発合格した40歳。
・息子が中学生になりPTAで役員をし、身体障がい者支援活動の大会などに積極的に参加していた、40代後半。
・義母が亡くなって独りになった義父を引き取り一緒に暮らすことを決め、その後の介護、亡くなるまでのこと。

振り返れば、純粋に「母は、我慢強く、強い人だな」と感じます。そして、決めたら、やる人だ。
優しそうな穏やかそうな見える母。振る舞っている表面とは裏腹に、強靭さを垣間見た、東京での母との暮らし。

急いで移動できない人を一緒に連れて移動することは急ぎたいけど、急げない。母は肉体の鍛錬。でしたが、同時に、私にとっては、精神鍛練でした。すごく貴重な体験をしましたし、私自身が「我慢すること」「待つこと」そして「相手の力を信じること」をたくさん教わりました。「まだまだこんなものじゃない!」私が常日頃思っている、人がもつ無限の可能性を、また見せていただき奇跡は奇跡なんかじゃなく、人が決め、行動し、起こすものなんだと思いました。歩くことは、生きることそのもの。母に訊ねると、「歩くと身体がスッキリして気持ちがいいよ。アタマも、普段ぐちゃくちゃでパニックになってても歩いたらスッキリはっきりしゃっきりしてくる。膝は痛かったけど歩くとアタマがスッキリするしよく眠れるし、気持ちイイから頑張って歩いた!」のだそう。母は、医師の力でもなく、薬の力でもなく自分自身の力で、膝の痛みを解消し、膝痛を治し医師の力を借りず、薬の力を借りることなく、自分の力で、認知機能を回復させた。これは、間違いなく、事実だ。仮に、一時的だとしたら一時的に留めず、継続できる方法を作ればいいだけのことだ。認知症を診断されたからと言って、記憶がなくなること、認知機能が低下することを、黙って待つの?何もしないの?諦めなくても良くない?、私は、考えます。ほんとうの原因は、何なのか?病気が教えてくれる身体の声は、何なのか?病気でも、進行を止める方法があるはずで母がそれを望むのなら、私は母の望みを叶える方法を一緒に探したい、と思う。歩けない身体の息子を自分が生んで、生活が一変、たくさんの苦労をした母は、きっと、「歩く」ことに対し、執着すると思う。私以上に。共に歩いて、過ごす日々、私には、母に、自信が芽生えたのが見えた。


歩くことは、生きることそのもの。

人間は、動かなきゃ、身体機能が低下する。じっとしてちゃ、ダメなんだよ。運動しなきゃ。「ほんとうは、どうしたいの?」を話そう。建前じゃなく、正直に、本音で、会話しよう。アシタスタイルの活動を通じて、私が日々、表現したいこと。母の体験を通し、母を介しての自分への課題をまた一つクリアできた気がします。
運動ってさ、「運」を「動かす」って書くじゃない?そのまんまだよね(笑)

さぁ。私の「出張仕事」が控えているぞ。いよいよ、北海道へ行く日が迫ってきた。が・・・母、どうする?

つづく。