【今後の活動表明】私が心から望む行動をします

代表ブログ

井手口です。

この数カ月間、ずーっと
心の中に、モヤモヤが、ありました。

今日は、モヤモヤの原因と、
モヤモヤを晴らすきっかけになったお話を
皆さんへ打ち明け、

私の心の声に正直に従うために
ブログを綴り

今後の活動についての、意思表明をいたします。

9月の、九州出張で起こったこと。
10月の、大阪出張で起こったこと。
そして、家族にまつわる出来事。

沸沸と、訴えてくる私のスピリット(魂)に、正直に、素直に。

スピリット(英語: spirit
元はラテン語の spiritus (息、呼吸、魂、勇気、活気などの意) に由来)
・・・wikipediaより

今日のブログは、少し長くなりますが
最後までお付き合いくださると嬉しいです。


アシタスタイルは、「自立」がテーマ。

自立とは、自分の足で立ち
自分のことは自分で出来るようになる 
ことです。

自分の大切なカラダの状態を、自分で把握し
他人へ依存して整えるのではなく、
自分で整える方法を習得します。

だから、

「歩ける足があるのだから、自分の足で歩くんですよ。」
「痛みを取る方法を学んで、自分で出来るようになってくださいね。」

そのために、
必要なこと、必要なもの、
情報、手段、たくさん用意して、
アシタスタイルを必要とするお客様が
まず「自分でやる」と決めて、
自分で出来るようになるために
お客様の自立のお手伝いを
私たちができることで、精一杯、行ってきました。

それは、「教育」という形で、
先ずは、知らなかったことを、改めて知っていただき、
習得していただく方法です。

教育は、人を変えます。

言語を育み、道具を生み、文明を築いた「人間」は
その「知恵」を活かさない限り
人間が地球へ存在する意味が、ありません。

知識は、未知の世界を開き
良質な情報は、人生そのものを、大きく変える力を持つ。

だから、教育が、大事。

人が、教育を受けなければ、人は、人でなし、となる。

アシタスタイルを創ってからというもの
「足元教育』の重要性を謳い
2014年から4年間、
数えきれないほどの講座を開催し、お伝えしてきました。

しかし

ここにきて、
状況が変わってまいりました。


出張の折、西へ出向いたついでもあり、
途中で私は、連休をいただき、
その足で夫の両親に会いに行きました。

夫は、遅めの夏休みを、私の出張に合わせて取ってくれ
現地合流にしました。

この連休で私を待ち受けていたさまざまな出来事は、
私の心を大きく揺さぶることになります。

九州講座が終了し、あとは、あきちゃんに任せて
夕暮れから、義父母が住んでいる最寄駅までの移動は
県をまたぎ移動する在来線で、実に3時間。

車窓からの景色など見えず、
外は、どんどん真っ暗になっていく。

街の明かりは、ほとんど見えません。

使った電車は、二両編成のワンマン電車で
電車の中に料金を入れる仕組み。

つまり、

駅があるのに、停車する駅は、すべて無人駅なのです。

到着した最寄駅も、案の定、駅の機能は果たしておらず
義母と、先に到着していた夫が、車で迎えに来てくれました。

田舎町の夜は、

ほんとうに、ほんとうに、漆黒の闇。。

因みに、私の実家は長崎市内なので、
地方と言えど、観光地ですし、
人口が減っているとはいえど、
まだまだ、人の往来がある町です。

長崎に帰省しているだけでは感じ得なかった言葉が、
ふと、頭をよぎる。

過疎。

過疎は、町の、老いかもしれない。
人の流れが無くなり、活気が消失し、生気が消える。

水の流れが止まると、川は枯れる。
水脈が止まると、井戸は枯れる。
緑豊かな大地も、湛える水が無くなれば、砂漠へと姿を変える。

しかしそれは、自然淘汰。

都市部集中の人口過密が、異常事態なのだ。

到着したのが夜だったこともあり
お天気も小雨交じりだったことで
なおさら、もの悲しい情景に感じたのかもしれません。

私は、東京という土地に18年住み、
東京暮らしが、すでに私の標準になっている。

そんなつもりはなかったけれど、
直面した事実と、私の感覚は、
正直極まりありませんでした。

この土地を選び、
住むことにした義父母は
野鳥を観察したり、山へ登ったりするのが好きで、
自然を愛するがゆえ。

土地も、住む人も、食べ物も
お金では決して手に入れることができない豊かさだと、
ここの温かさ、優しさに、惚れ込んでいるからだ。

義父母はむしろ、都会の喧騒を離れ、
穏やかに、静かに、シンプルに暮らしています。

真っ暗闇の中に、ほとんど乗客が乗っていない
電車を降りたこの時点ですでに
私は、私の生き方を、問い始めていました。

(日本中に、いったいどれくらい
この感覚と同じ場所があるだろう??)

TOKYOにかぶれたつもりはなかったのに
まんまとかぶれた自分が、確かに、そこにいました。

とはいえ、もともと地方出身です。
(普段でも、仕事を離れたらバリバリの長崎弁やけんww)

ちょっと怯んだけれど、
想定内といえば想定内の出来事ではあります。

事実、
私が生まれ育った町は、過疎地となりました。

町を支えていた大会社が撤退し、
産業が無くなり、子どもがいなくなり、小学校も閉鎖。

長崎市の夜景が美しいのは、
平らな土地が少ないために
山の上の方まで、人が住んでいるからだ。

長崎の夜景が、様変わりしている。

山の上の方へ住んでいた人が亡くなる。
歩けなくなって、自宅があるのに山を下り、
平地のマンション暮らしへと変わっている。


滞在中、義父が

「そうそう、わいたち居る間にさ、
Sおじちゃん、Sおばちゃんに、顔見せに行こうと思うけど」

Sおじちゃん、Sおばちゃん、は、親戚ではなく
赤の他人ですが、若いころ当時の義父母が
両親代わりのようにお世話になった隣人の方で

転勤族の義父母は、長崎から離れた見知らぬ土地で、
親身に関わってくださったお隣さんの存在は
さぞ心強かったことでしょう。

夫にとっては、おむつを取り替えてくれた身近な大人。
それはそれは、わが孫のように
可愛がってくださったようでした。

Sおじちゃん、Sおばちゃんに、
私が初めてお会いしたのは、2013年。

今から5年前、
夫・Kさんに紹介していただいて

「おーーー!そうかそうか!
Kちゃんも、お嫁さんもらう歳になったか!(笑)」
なーんて、冷やかされながら。

2013年当時、お二人ともに、80歳の声を聴いた頃。
ですが、
お二人とも、とても80歳には見えないほど
ハツラツとしていらして、
冗談を言っては、私たちを笑わせて。

Sおばちゃんはご病気の影響で
見えていた眼がほとんど見えない状態。
それでも、自分の足でしっかり歩き
「口だけは達者よ!」と笑っていました。

Sおじちゃんは、畑仕事に汗を流し、とてもお元気で
「今朝、採れたよ~、ちいさかけど持っていくね?」
そう言って、ジャガイモやニンニクをたくさん持たせてくれた。

2018年。

5年ぶりにお会いしたお二人は、80歳半ば。

会わない5年の間に、

あんなにお元気だったはずのお二人ともが、
もう、杖なしで、自力では歩けなくなっていました。

Sおばちゃんは、右膝が痛くて、正座ができなくなって。
Sおじちゃんは、坐骨神経痛で、
腰から下の左半身がずっと痺れたままだと仰った。

近所に住む娘さん(Hねえちゃん)が、
ほぼ毎日、足を運んで来ているという。

5年前は、あんなに快活で、
冗談ばかり言って私たちを笑わせて
「元気だけが取り柄!」
「畑仕事で汗を流すのが気持ちいい」
「俺がかあさんの目の代わりにならんとな」
そう言っていたSおじちゃんが、

自宅へ引きこもり、
杖が頼りとなり、
足を引きずり、
力なく、トボトボと歩く姿を目の当たりにし

私の中に

例えようのない憤りと、

同時に

フツフツ。フツフツ。と、

熱い何かが、沸き始め
沸いた熱いものが、込み上げてくる。

喉の奥に、

グッと詰まる「何か」を感じる。

(しばし、冷静に。)

Sおじちゃんの足元を、

ひたすら、観察。

・・・(おじちゃんの足のサイズ、
靴の大きさの感じなら、
今、夫の靴の中に入れているこの前作成したインソールで、
仮に使用できそう…)

Sおばちゃんの足元を、

ひたすら、観察。

・・・(おばちゃんの足のサイズ、
私よりだいぶ小さいけれど、
靴が大きそうだから、
暫定的に私のインソールで、仮に使えそう。
パーツの高さも調整して新しくしたばかりだし…)

ひとしきり、観察が終わったところで、

居ても 立っても いられなくなり、
Sおじちゃんに、声をかける。

「Sおじちゃん!
私ね、足を健康にする仕事ば、しよると。
楽に歩けるようになるけん、
足、見せてもらってもよかですか?
ちょっと、そこのベンチに腰かけて」

おじちゃんに靴を脱いでもらい、夫に声をかける。

「Kさん(私の夫)、
自分の靴の中に入っているインソール、取り出して。
こっち来る前に、新しく作ったばっかりけん、
それ、おじちゃんに試してもらおうて思う。」

夫の靴の中に入れていたインソールを取り出してもらって
おじちゃんの靴に入れる。

おじちゃんの靴の中に予め入っていた
既存のインソールを取り出して、
夫の3Dインソールを入れ替える。

作業を見ていた、周りみんなが、

「へぇ~!中敷きって、そうやって外れるとね?!
知らんやったよ!!」

「そうなんです。
こういうことって、わざわざ勉強せんですもんね。」

そう。

これも、靴を知らない日本の現実。

夫の3Dインソールを、おじちゃんの靴にセットして、
おじちゃんの足を入れ、靴の中にキチンと足を納めて、
丁寧に、丁寧に、靴紐を結ぶ。

(ジッパー付きのシニア靴は、幸いで。
脱ぎ履きをする場面で、靴紐を解かなくても済むので、
私がしっかり結んだひもは、二ヵ月経った今もきっと
そのまんまの状態で、おじちゃんの足を支えていると思います。)

「はい!おじちゃん。よかよ~
立ってみて。歩いてみて!」

「おっ!これはいい!!!
足がスイスイ前に出るなぁ^^」

「歩くうちに、骨の配列が整うから、
しばらくの間、駐車場ば、ぐるっと歩き回って。
次は、おばちゃんね」

おばちゃんは、目が不自由になっているから、
腰を下ろす場所も自分ではわからないほど。
Hねえちゃんに手を貸してもらって、腰を掛けてもらう。

見えない暮らしは、靴を履くのも難しい。
おばちゃんが履いていた靴は、ただ足を入れるだけの
大きなゆるい靴でした。

カウンターの欠片も、入っていない。

私の靴の中の、出張に合わせて新調したばかりの
3Dインソールを取り出して、
おばちゃんの靴に入れて告げる。

「おばちゃん。雅恵菌のいっぱいついとるけど、
ごめんね。今、これしかないけん。
でも、膝が楽になるから、使ってみてね。」

「あら!!気持ちいい!!
あら!!膝がラク~♪」

「おばちゃんも、すこし、歩き回ってみてー」

二人に歩いてもらい
【自分で正しく歩いて、自分の身体を調整する】
を、体験してもらう。

「すごいねー!この中敷き。
からだのこわばりが無くなっていくね。
雅恵さん、ありがとうね。」

「おじちゃん、おばちゃん」

「あじちゃんも、おばちゃんも、
二人とも、80歳半ばでしょう、
この年齢だからこそ、すぐに、良い変化を起こせます。

ちょっと支えてあげるだけで、
身体が元の正しい位置に戻るの。

どうしてかといえば、
私たち世代とは、身体の作られ方に圧倒的な違いがあってね、
子どもの頃から青春時代も、大人になってからも、
身体を移動させる手段が『自分の足』だったからです。

今の時代とは違う、不便な暮らしの中で、
自然に身体を使い、筋肉を培ってきた強い身体だからです。

いま、おじちゃんとおばちゃんの靴の中に入っているのは
このすごいインソールを使い慣れたKさんや
私の足に合わせてカスタマイズした
「上級者用のインソール」。

でも、すぐに、こんな風に使いこなせるのが、
足をたくさん使ってきたご年配の身体の特徴です。

何が良いって、
足が強いからできることなんですよ。」


遠くの親戚より、近くの他人。

義父母が、当時、
おじちゃん、おばちゃんへ、
どれだけお世話になり、懇意にさせていただき
互いに想い、心を通わせ合っていたかは
会話の中で容易く想像がつきました。

預かったご恩は、いつかお返しをする。

今こそ、ご恩返しの時だと、思いました。

その後、

家の中へ戻り、
みんながお茶をしている間に、居間で

「おばちゃん、身体を触ってもいい?」

まずは、正座ができなくなっているSおばちゃんの足を、
足のゆび先から、ほどいてゆく。

恐らく、この十数年は、
ほとんど着地することなく
浮いたままであろう小ゆびから。

心の中で、
Sおばちゃんの小ゆびに向かって声をかける。

(ほらほら、起きなさい)
(目を覚ましてね)

そうやって、足元から足首、
ふくらはぎ、もも裏、お尻と、順番に、
Sおばちゃんの骨と腱と筋肉を、
正しく繋ぎ直していく。

うつ伏せ、仰向け、と、一通り、施術をして

「はい。おばちゃん。ゆっくり起き上がってみて。」

立ち上がったSおばちゃん、声をあげる。

「あらま!膝がぜんぜん痛くない!」

すると、突然、屈伸を始めました。

「じゃあ、おばちゃん、
今度は、正座をしてみようか?」

「正座?できるかなぁ…
もう20年くらい、痛くて正座できないけど…」

そう言いながら、恐る恐る。。

「あらま!!!正座できた!!!
わぁ!すごい!」

おばちゃんの歓喜の声を聞きつけた
Hねえちゃんが、キッチンから飛んでくる!

「お母さん、正座できるの??」

「うん、大丈夫になったみたい(笑)」

目の前で起こる魔法のような嘘みたいな出来事に、
義父母も、夫も、みんなが
キツネにつままれたようなキョトン顔。

「OK。じゃぁ次は、おじちゃん、
はい、横になってー!」

同じように、足のゆび先から、
縮こまっている筋肉たちに触れ
声をかけ、呼び覚ます。

おじちゃんは、いろいろ治療にも通っていたらしく、
でも、なかなか良くならなくて、
治療に通うのもやめてしまったそう。

触れている間も、私へ
過去のさまざまな治療の経緯と
なおも継続したままの痛みと痺れを訴えてくる。

うつ伏せ、仰向け、一通り、整える施術をして、

「はい、おじちゃん。
座って足を伸ばしてみて。
立ってみて。」

脚を投げ出して座り、前へ屈伸。
すぐに立ち上がって、歓声をあげる。
「おーー痺れが取れたねー!!!」
「支えがなくても、杖なしで、立てるなぁ!」
その場で、足踏み。

またもや歓喜の声に、Hねえちゃん、
再びキッチンから飛んでくる。

「え??お父さん、杖なくても歩けるの??
え~!!嘘みたい!!ほんとに??」

おじちゃんには、
この状態をキープするための簡単な体操を
ひとつ、お伝えして

「OKね!
じゃあ、おじちゃん。
これから外に出て、少し歩く練習をしましょう。」

玄関で、腰を掛けてもらい再度、靴を履いてもらう。

足へ、靴を添わせて。
靴が身体の一部になるように。
靴が、足の機能を補えるように。

「おじちゃんの靴は、
ファスナーが付いているから、
この紐はキッチリと結んだまま、
ファスナーで脱ぎ履きをして下さいね。

では、一応、私が杖を持っていくので、
表に出て、少し、お散歩しよう。」

おじちゃんは、ほんとうに嬉しそうに、

「杖、つかずに歩くのは、何年ぶりかなぁ~!!」

ニコニコしながら、
ゆっくり、ゆっくり、
一歩ずつ、
足の感覚を確かめるように、歩みを進める。

「頭の重みや、上半身の重みを利用して
重心をうまく移動させると、足が疲れないから
こうやって歩くと楽にたくさん歩けますよ。」

「うん。うん。確かに、なるほど。
下半身が痺れていた原因、自分でもわかるね」

おじちゃんと話しながら
歩き方をレクチャーして、

「痺れを、再び繰り返さないように、
これから歩く時間できるだけ増やしてね。」

「はい、わかりました。
いっぱい歩きます。
体操も、まじめに続けます。」

久しぶりの懐かしい束の間の再会。

集いの時間は、あっという間に過ぎ、お別れの時間。

「おじちゃん。元気でね。また来るね」
握手。
「ありがとう、雅恵ちゃん。救われた。ありがとうな」

「おばちゃん、また会おうね。」
握手。
「うん。またね。雅恵ちゃんのお顔が見えないのが残念や。」
おばちゃんが私に抱きつく。
「私さ、おばちゃんが腰抜かすぐらい絶世の美女やけん。
どげん美女やろうか?って想像しとってよ!(笑)」

みんな揃って、笑い、泣く。

深々と私へ頭を下げるお二人。

「Hねえちゃん、お世話になりました。また来るね」

Hねえちゃんに声をかけると、
Hねえちゃんは、私を抱きしめ、
「雅恵ちゃん。ほんとうにありがとう。ありがとうね。」

そう言うと、ぼろぼろと、涙を流した。


私の始まり。

私の、原点に、還る。

両親が、幼い私へずっと言っていたこと。

「困っている人がいたら助けてね」

「人へは親切にするとよ」

「天知る、地知る、己(おのれ)知る。
天も地も、すべて、お見通しやけんね。
どんなに上手に隠せても、自分の心は誤魔化せんとよ。
自分だけは自分についた嘘ば知っとるとやけん。
正直で、素直で、いなさい。」

私の両親は、人様へ対してとても親切な人で
娘の私が、他人へ焼きもちを焼くほどです。

柔道の師範で、大工の棟梁だった父は
武道に携わり、神事に携わり、
その竹を割ったような性格は
幼児に対しても、市長さんに対しても
同じような話し方で、まったく裏表がない。

幼少期を満州で過ごし
戦後の引き揚げから、貧しい暮らしの中でも
他人への奉仕を一切惜しまず、
優しさと思いやりを大切に生きてきた母。

そんな両親の姿を見て
両親の背中を見て、育った。

両親がいつもそうやっていたように、

私も、同じで

目の前に、困っている人がいたら、放っておけない。
痛みで苦しんでいる人を、放ってなんておけないです。

今までもそうやってきたし
きっと、これからも、
そうやって生きていくと思います。

人に優しくしたいし、
人から優しくされたい。

親切は、他人へ行うことではありません。

他人へ行った親切によって
私は、相手から
例えようのないほどあったかいとびっきりのギフトを
頂く。

ペイフォワード

親切とは

結局

私は、私が救われたくて、行っていること。

私が満たされたくて行う、まごころの先払いなのだ。



今日、また、実家へ電話をする。

母の状態は、たぶん、良くなることはないだろう。

これまでもそうであったように
周囲がその変化に気づかないくらい
ゆっくり、ゆっくり、変わっていくのでしょう。

人の顔が認識できなくなっているだろう母は
恐らく、それを悟られたくないのでしょう、

恥ずかしさを隠す行動だと思われ、
週に2回の、3時間ディケア以外は、
ほとんど出かけることもなく
家族の傍を離れようとはしなくなりました。

家の中で過ごすことが多くなっている様子。

「散歩に誘っても行きたくない」と断られる、と
兄がこっそり、教えてくれました。

行きたくないのを無理に引きずり出しても
しょうがないので。

さて、どうしたものかと考えあぐね・・・

そうだ!!

そうそう!
イイこと思いつきました!

昭和歌謡が20曲収録されたCD5枚組のセットをプレゼントすることにした。

昭和歌謡100曲全集。

二葉百合子とか
美空ひばりとか
藤山一郎とか

母が良く口ずさんでいた、少女時代から青春時代の
懐かしい音楽を、家にいる間中、BGMにしてもらおう。

そして、今、この瞬間も、
きげんよく、口ずさんでもらいましょう^^

父から電話。
「届いたぞ!どーまた良かもんば送ってくれて。ありがとうね~!」

兄へ電話を代わると
「まーちゃん!CD届いたばい!
もうね、ずーーーっと、鳴らしとると。
家の中、一日中、昭和歌謡ばい。(笑)」

2人とも嬉しそうに、笑いながら、言った。

自分の記憶が、日々、危うくなっていることは、
母自身が最も認識している。

それでも、

電話をかけると、私へ心配をかけまいと、取り繕う母。

直近で覚えている記憶を必死で辿り
壊れたレコードのように同じセリフを
何度も、何度も、繰り返す。

そして、電話を切る時には
決まって、こう、言います。

「まーちゃん。心配かけてごめんね。
お母さんは、大丈夫よ。
ありがとうね。本当にいつもありがとう。

生まれてきてくれてありがとう。
素直に育ってくれてありがとう。
いつも気にかけてくれて嬉しいです。」

ここ一年で、私に投げかけてくれる母からの言葉は、

まるで

いつ、なんどき、

自分が消えてしまっても後悔がないかのような
「愛」と「感謝」の言葉の連続になりました。


私には、8歳年下の弟がいますが
歩けない身体で生まれました。

坂の町、長崎で。

自分の足で歩けない身体での日常生活が
どれだけ困難になるか?を
私たち家族は身をもって体験しました。

母は、自分を責め続けた。
私が知りえない苦労もずいぶんたくさんあるだろう。

弟の体重が増え、限界を感じた母は、
40歳で車の免許を取りました。

(歩くことが大好きだった母が、
自動車免許を取ることもなく
移動をすべて自分の足で行っていたら??
今ごろ、どうしていただろう??)

たらればを言っても仕方がないが

そんなことを考えるときも、ある。

私が「自分の足で歩く」ことに
これほどまでにこだわり

他人様へもそれを必死で伝えるのは

自分の足で歩けることの尊さが、痛いほどに、身に染みているからです。

日に日に大きく成長していく弟と
日に日に年齢を重ね老いていく両親の姿を
目の当たりにし

私たち家族は、暮らし方の変更を
余儀なくされたから。

歩ける足を持つ身体の人が
エレベーター待ちをしている姿を見かけると

(身体に障がいがないのなら自分の足で歩きなさい。)

と、本当に、思う。

エレベーターや、エスカレーターは
自立移動が困難な方のための移動手段です。

車椅子、白杖、ベビーカー。

「便利だから」「楽だから」という
身体を怠けさせる理由だけで

五体満足な人が日常的に使っていては

ほんとうに必要な人へ、
ほんとうに必要な時に、
届かない。


電話を代わった弟が、少し、興奮気味に伝えてきた。

「まーねーちゃん。
こんばんはー

元気にしとる?

忙しかと?

長崎にはこんど、いつ帰ってくると?

お父さんとね、毎日リハビリしよるばい。

ばってん、痛かとよー。
痛くて涙の出るごと痛かとよ。

汗びっしょりになると。

でも、装具ばつけてから、1時間
立っておられるごとなったとよ。

前は、20分しかできんやったとけどね。

そいでね

ハートセンターの廊下ばね、

装具ばつけてからけど
スローターば押して、歩きよるとさ。

60メートル、歩けるごとなったとばい。

廊下ばね、往復できるとよ!」

母の認知症が分かってから、
父と弟はリハビリを始めた。

ずっと車いす生活でしたが
歩き始めてからの弟の言葉は、
どもることもなく
はっきり聞き取れるようになった。

井手口の家族記事は
 闇に向き合う(2016/7/5)

 嘘つくのを辞めた人たち(2018/3/19)


アシタスタイルの創業よりも、
もっともっと前

私が他人の足へ触れる学びを始めたきっかけは
世界一大切な、夫の身体を守りたかったからだ。

それよりも、
満たされない自分を、満たしたかったからだ。

我が子を手に抱きたくても叶わず
抱けなかった私が、

私へ、向き合うための
それはそれはかけがえのない時間でした。

自分の身体へ向き合い
存分に心へ向き合い

私を十分に満たせたからこそ、出来たこと。

私の器が満ち、それは、勝手に溢れ出した。

そうやって、月が、満ちて、

アシタスタイルが、誕生しました。

私は私を持て余し
時間を持て余し
他人様へも、溢れ出すそれを、分けて行きました。


目の前で大量の血を流している人には、止血をする。

当然だ。

止血する方法とか、
その説明とか、
そんなことはどうだっていい。

まずは、血を止めないと!!

おんなじこと。

明るく元気で陽気に笑い

快活だった人たちが

杖に頼らなくては歩けなくなっている姿を
痛みに苦しむ姿を
外出が億劫になるほどに
意気消沈してしまっている状態を
放ってなんておけないです。

だったら、私の肩を貸そう。

だったら、私が、足になろう。

だったら、私が、連れ出そう。

冷たくて暗い場所から
温かいお陽さまの光が射す方へ。


坂の町、長崎。

美しかった長崎の夜景が、変貌しました。

私が子どもの頃は、みんな、普通に山の上まで、歩いていて
それが当たり前でした。

光が無くなったのは、人がいなくなった証拠。

光がある場所。

そこには、人の暮らしがある。

歩くことに不安が無くなれば
人は、山の上にだって、住む。

どこにだって、住むことができる。

その人自身が

毎日笑って過ごし

心から人生を楽しみ、謳歌し

気力・活力がみなぎっていれば

その人自身から発する光が、お陽さまになる。


破壊と創造。

1945年8月9日 午前11時2分。

日本に、二つ目の、原子爆弾が投下されました。

7万人が犠牲となり亡くなりました。

私の父は、被爆者です。

祖父も、祖母も、
おじもおばも、全員、被爆者です。

あの日から73年経った今もなお、
原爆症に苦しむ人がいます。

私が生まれ育った長崎には
「平和教育」があって

夏休みでも、8月9日は、学校へ行く日です。

幼いころからそれが当たり前で
「死」の恐怖を、
戦争のむごさを、
日常的に、身近に感じながら生きてきました。

物資を無くし、人を亡くし、
あらゆるモノをなくし
焼け野原になってしまった日本。

先人が行った負の遺産、ぜんぶを背負い

今の私の平穏な生活を築いてきてくださった皆様へ

私の経験が活きるのならば、
喜んで活かしていただこうと、思います。

預かったご恩は、いつかお返しをする。

今こそ、ご恩返しの時。

幼い私が、私の耳元で囁く。

「困っている人がいたら助けてね」

「人へは親切にするとよ」

「どんなに上手に隠せても、自分の心は誤魔化せんとよ。
自分だけは自分についた嘘ば知っとるとやけん。
正直で、素直で、いなさい。」


Hねえちゃんから、ハガキが届きました。

雅恵さま

秋冷の候、お変わりありませんか?
先日は有難うございました。
楽しい時間をすごすことができたこと
両親も大変喜んでおりました。

御陰様で、その後も元気にしております。

私は、私の身から、
次世代の命を産み出せませんでした。

「未来」を作り、残すことはできませんでした。

だから、その代わりに
私のできることをして、「知恵」を、未来へ残します。

生き方そのものを背中で見せてくださり
「おばあちゃんの知恵袋」を繋いでくださり
身を粉にして働き、平和な時代を築いてくださり
便利な生活を創ってきてくださった
その存在が「知恵」である人生の大先輩方へ
心から敬意を表し、

ありったけの感謝を込めて
私が心から望む行動をします。

沸沸と訴えてくる私のスピリットに、
正直に、素直に。

私には、夢があります。

人々から老いの不安を無くすこと。

年齢を重ねることへの恐れや憂いを
楽しみや喜びに変えること。

日本中に、笑顔の花を咲かせたい。


今後の活動表明です。
アシタスタイルは
講座の開催に限らす
シニア向けの個別カウンセリングを始めます。

生涯現役!
杖にも車いすにも頼らずに、
自分の足で歩ける毎日を過ごすために。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

予約が殺到するかもしれません。

だとしても
私は私の心の声に、正直に従いたいです。

忙しくなるでしょう。

けれど、むしろそのほうが
本当の私の心を亡くさずに、自分が活かされると思うから。

この数ヶ月のモヤモヤの原因は

私が私に嘘をついていたからです。

2014年から4年もの間、貫き通してきたこと。

「アシタスタイルの入口は、講座です。」

自分の足を知ること。
教育の必要性。

だからずっと、迷いの中にいました。

一度決めたことを曲げるのは

(これまでお越しになられた方へ、申し訳が立たないんじゃないの?)

そうやって

お客様へ対しての言い訳ばかりを考えていたからです。

「裏切られた」と言われるかもしれない。

築いてきた信頼関係を崩してしまうかもしれない。

そんな恐怖におののき震える私の背中を押してくれた人がいました。

背中を押してくれたあの方たちへ、
今こそ、恩返しをします。

一度決めたことを曲げるには
大きな勇気が必要でした。

決断し、一歩を、踏み出します。

ブログを読んでくださったあなたへ。

あなたを育んでくださったかけがえのない大切な親御さんを、

アシタスタイルへ連れてきてくださいませんか。

私に、親御さんを手当てさせていただけませんか?

もちろん、これまで育んできた講座は、引き続き行って参ります。

アシタスタイルの事業の根幹は

【教育】です。

ですから、

自分で歩ける人は、自分の足で歩いて講座へ来て、歩けなくなる前の予防法を学んでください。

自分で、知識を得て

自分で、技術を習得し、磨いてください。

自分の頭と身体で、「カラダ」の真実に触れてくださいね。

自分のことは、自分で出来るように。

それが出来なくなってしまうほど、長い人生を歩んで来られた皆様は、

アシタスタイルで、一旦腰を下ろしていただいて

しばし一休み。

骨休めをなさってください。

再び、歩くための準備を整え、

一生涯、現役で、終末のその日を、笑顔で終えましょう。

お互いに、そうしましょう。

「わが人生に悔いなし!」と最高の笑顔で、死にたいです。

長い長いブログ、最後まで読んでくださりありがとうございます。

いつもいつもアシタスタイルの活動を応援してくださる皆様。

この記事を、シェアしてくださいませんか。

何卒宜しくお願い申し上げます。

いつもお世話になり、

たくさんの愛を頂戴し、

心より感謝を申し上げます。

アシタスタイル代表

井手口雅恵